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Hold Me Jesus 2

北海道在住のジーザスフォロワー・taikaのブログ。CFNJ聖書学院にて研がれる日々。

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グラッサー博士の選択理論―幸せな人間関係を築くためにグラッサー博士の選択理論―幸せな人間関係を築くために
(2003/07)
ウイリアム グラッサー

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先日、このブログに「人間関係が苦手」と書いた。あれからも心のどこかでそのことを思い続けてきた。そしてじわじわと分かったのは、人間関係が苦手と感じるのは、繋がるよろこびを知らないからかもしれないということだった。単純に。

お部屋の相方、くまちゃんは心理学好きだ。お勧めの本を借りて、読んでいる。『グラッサー博士の選択理論』。その中に、“上質世界”という考え方が出て来る。簡単に言うなら、自分が周りや人々に対して抱く理想のようなものだ。客間というより、個人的な書斎。

僕も、その上質世界を振りかざして、周りを眺めていたのかもしれないと思った。そしてそこに理想が見いだせないとき、簡単に関わりを諦めて、自分の書斎に引きこもってしまう傾向があった。幸か不幸か、ひとり遊びは苦にならない性格なので、今まではそれでやり過ごしてしまった。

でも聖書は関わりの大切さを語る。「人がひとりでいるのは、よくない」んだ。第一、僕らが信じている三位一体の神様も、父、御子、御霊の完全な愛の交わりの中にある方だ。そして確かに聖書では、モーセやダビデ、パウロといったひとりの人、個人が大きく取り上げられているけれど、彼らはしっかり、他者との関わりを持ち続けた。イエス様は、父なる神様と僕らとの関わりを回復するために、地上に来てくれた。教会だって、ひとりだけではなりたたない。

わいわいきゃあきゃあということだけが、関わりではないことを、ちょっと忘れていたと思う。そこに上手く入れないだけで、関わりそのものを敬遠するのはもったいない。お互いの“上質世界”、書斎に入りあって、深いところで繋がることもできるんだ。そこで生まれる、新しい意味、広がりもあるんだと思う。

個人的な話だけれど、伴侶を求めることも、半ば「どちらでもいいです」と思っていた(笑)。でも、可能性があるならば、関わるよろこびを求めたいと、気持が変わってきた。もちろん関わる大変さ、煩わしさもあるだろうし、今すぐにどうこうではないにしても、お互いの世界観を変えあう、そして高めあう関わりが築けたらいいと思う。祈ります。

…コミュニケーションへの苦手意識を、少しずつ拭い去っていけるように。たくさんでなくてもいいから、深い交流ができるように。

僕と同じ気持を抱いている皆さん、諦めずに、頑張りすぎずに、周りと繋がっていきましょう!神様も喜んでくれると思うよ。練習台として、僕を使ってくれてもありがたいです。僕の練習にもなるので^^

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2011.07.31 04:03 | 信仰・想い | トラックバック(-) | コメント(1) |
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい」(ヨハネ福音書13:34)


クリスチャンだけど人付き合いはあんまり得意じゃない。
そんな方はどのぐらいいるんだろう。
けっこう多いのかな。
僕もまさしくそのうちの1人だ。
コミュニケーション下手。
人と何を話したらいいかわからなくなって、
しどろもどろになることも、しょっちゅうある。

クリスチャンになる前から、一匹狼で過ごすのに慣れていた。
だから独りでいる方法が確立されてしまっていて、
放っておいたらずっと、部屋で本を読んだり、
写真をいじったり、色々なアイデアを思い巡らしてしまう。
それが楽で、楽しい。

僕にとって、他の人といるときは素の状態ではない。
一種の“役割”に入ってしまっている。
サービス業というか。
だから自分が楽しむうんぬんより、
その場の空気を調整したり、足りないティッシュを
足してみたりで、本来のコミュニケーションが
全然取れない^^;


…でもイエス様の願いは、僕らが互いに関わって、
愛し合うことだ。三位一体の神様ご自身が、
愛の関係の中にいる方だ。
この矛盾、何としましょう。
もったいない、と思うよ。つくづく。


「なかなか自然体で関われない」のが悩みということは、
人と関わりたい気持はあるんだろう。
まして、こんな風にブログにも書いているんだから。

皆と繋がりたい。簡単に切れない関係をつくりたい。
そんな願いはあるのだろう。

結論はすぐには出ない。
けれども、神様はこんな僕をこの学院に呼んでくださったんだから、
必ず「関わり」を回復させてくださると信じる。
人と関わる喜びも楽しみも、教えてくださると思う。

そして他にも、クリスチャンだけど人間関係は
上手じゃないよという方がいたら、アドバイスお願いします^^

皆、どうしているんでしょうね??




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2011.07.10 03:48 | 信仰・想い | トラックバック(-) | コメント(3) |


「神は孤独な人に身を寄せる家を与え、捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださる。」(詩編68:7)

この学院にいる僕の状態を、一番よく表してくれている御言葉だと思う。世捨て人のように生きてきた僕をイエス様が拾ってくれて、学院、教会、家族を再び与えてくれた。

5月13日、34歳になった。イエス様が亡くなられた歳を、とうとうこえてしまった。その日の朝も例によって明け方に起きてしまい、祈り部屋で一人、あれこれと想いを巡らせていた。残り時間のことを考えた。いわゆる「一般的な人生」からはだいぶ軌道がはずれてしまったこの人生、残りをどう使うべきか。

突き詰めて考えれば、僕はただただ、イエス様のことが知りたいのだと思った。自分の全部で受け止めて、それをまだ知らない人に伝えたい。それだけだ。僕も含めて、人々がイエス様を知って、それまでの囚われから解放されて、突き抜けた人生を送って欲しい。常識にがんじがらめでない、本気のキリストの弟子となってほしい。僕もなりたい。人の変化と成長がみたいんだ。

要はずっと飢え渇いている。本当にイエス様を知ったらどうなるのか。そのことに。何かを知った気になんてなれない。求道が続いている。

世界規模でクリスチャンの、つまり父なる神様の計画は進んでいる。そこがまた面白い。そんな壮大なプランのごく一部を、こんなへなちょこ兄さんが担当できるなんて。逆説の面白さだ。

…写真もある種の使命、本能の類いと思っているが、これはあくまで実用、アマチュアのレベルとしてだ。僕が学院や日常生活を撮りまくって公開しているのは、イエス様を証する為の通路だ。生きているものを見せたいからだ。

余談だが先日、教会のシネマカフェで『ファイアーストーム』を観てから、配偶者のこともかなり真剣に祈っておりますよ。火がついたね(笑)。というのも、いずれ本格的に神様の働きに携わるようになった時、絶対に助け手が必要だと感じるから。「人がひとりでいるのは良くない」のも痛感しているから。そして何より、実は結婚って、この世にいる間にしかできないらしいから^^
「復活のときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と聖書にあるとおりだ。まあ学院にいる間にどうこうはないと思うけれど(出てからも?)、いずれ出会える“その人”のためにも、少しはこの気難しさを聖霊様に削って頂いて、ましな人間になりたいと願う。まあ早めにお会いできるのなら嬉しいですけど。


この歳…まだ34歳なのか、もう34歳なのか。

僕にはわからない。時間は変えられないから、そこにある34歳を認めるだけだ。
とりあえずイエス様を中心に、写真、韓国語、子供達への働きにそれぞれ邁進していく。最終的な大きな目標としては「牧会」だろうか。うわあ、だいそれてるね。でも余計なことは考えない。
余計なことは、クリスチャンになる前にさんざん考えたし、それで結論なんか出なかった。全ては仮説に過ぎなかった。

というわけで、誰に向けてかわからない地味目な所信表明、でありました(笑)。
これからもよろしくお願いします!



「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うだろう、と主は言われる。」(エレミヤ20:11-14)
2011.05.16 07:32 | 信仰・想い | トラックバック(-) | コメント(0) |

ブログではお久しぶりです。皆様お元気でしょうか?と誰に言うともなく言ってます^^
僕はといえば様々な役割、奉仕に埋もれつつ、「聖書面白ええ!!!!!!」と叫びまくりたいほど、徐々にその深さを感じてます。生きることにこれだけ直結する本って、他に無いよね。



…新学期が始まってから、僕の中で少しずつ形になってきていることがある。それは牧師への召しだ。偉いとか立派とかではなく、キリストの身体の役割としての牧師。「神様、隣の人と間違えてないですか?」という疑問もあるにはあるけれど、学院に在学できるうちに、この召しをはっきりと受け取れたらと思う。でも神様に関わることで良かった。「魚屋さんでアルバイト、しかも一生!」とかだったら、ちょっと困る(笑)。魚屋さんも素敵ですけどね。

「あなたたちがわたしを選んだのではない。わたしがあなたたちを選んだ」(ヨハネ福音書15:16)。この御言葉を握りたいと思います。



5月2日の日曜日は、久々に礼拝を捧げることができた。水産部の横暴なシフトのおかげで、ここ何回か、日曜出勤が続いたからだ。午後はキム先生とマンツーマンで弟子訓練の学びもできて、これが濃い、深い時間で良かった。

学びの前に、次の御言葉から、先生は「自分に死ぬこと」を話してくれた。

「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を捧げられた神の子に対する信仰によるのです。」(ガラテヤ2:19-20より)

アメリカで大リバイバルに携わったウェスレーという人によると、クリスチャンには4段階の回心があるらしい。①宗教的な改心。②福音による回心。③聖霊による回心。そして④使命による回心だ。彼自身も、この段階を経て、回心が深まっていったという。

日曜日に教会に行く。祈る。賛美する。メッセージを聞く。で、残りの日々は普通に過ごす。この、宗教的な改心から、福音による回心に向かうことが大事だと教わった。どうすれば、その方向に向かえるのだろうか。必要なのは「自分にとことん絶望すること」。イエス様に従いたい、聖書が語ることを生きたいと自分で何とか努力して努力して、けれど決してその基準には達せないと心底思い知った時、初めて神様に全てを委ねることができるようになる。

最初から何もしないだとか、自暴自棄になるという意味ではない。努力に意味がないわけでもない。
自力では何もできないという気づきを得る必要があるんだ。徹底的な無力。

上に挙げた御言葉で、僕らは「キリストと共に十字架につけられています」と、受け身の形で書かれている。自分で自分を十字架につけることは不可能だ。右手で足に釘を打つ。そして左手で釘を打つ。では、残った右手はどうするのか。

愛をもって、古い自分を十字架につけてくれるのは、イエス様ご自身だと思う。

だから僕も、頑張って、失敗して、失敗して、限界に突き当たって、もうイエス様に委ねるしかないところまで、行きたいと思う。

その時、もっともっと、福音の恵みを、身をもって知ることになるんだろう。頭じゃなくて、身、僕の全部で。

飢え渇きは、ますます強まるばかりです(笑)。

そうだ、Facebookではちょこちょこ写真や文章を更新してます。「fukui taika」で探して、良かったらお友達になってくださいね^^





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2011.05.04 09:54 | 信仰・想い | トラックバック(-) | コメント(0) |

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3月の間、たくさんのことを考えた。
ネットでの活動についても改めて見直してみた。
本来の目的を見失って、
手広くやりすぎてると思った。
そうして、mixiとツイッターは止めることにした。

どちらに対しても全く悪い気はないけれど、
たくさんの人のたくさんの意見と気持を読んでいるうちに、
なんだか酔ってしまうようになったのだ。

これからはこのブログとFacebookに規模を縮小して、
こぢんまりと活動を続けていこうと思う。
ブログのタイトルも変更する。

熟考して決定。
その名も…「Hold Me Jesus 2」。イッツ安直!


もうすぐ学院の新学期が始まる。
僕自身も、新しい、次の流れに入っていっていると感じる。

少しずつまとめていく、これからの考えの中で、
祈って動きながら求めていく中で、
「イエス様と生きるってどういうことか」を、
もっとはっきり見据えていきたいと思う。


これからも気長にお付き合いください^^




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2011.04.03 16:23 | 信仰・想い | トラックバック(-) | コメント(1) |
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