Hold Me Jesus 2

北海道在住のジーザスフォロワー・taikaのブログ。CFNJ聖書学院にて研がれる日々。

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ここで少しばかりの近況を。



1.ハッシーのこと。



前のエントリーで、謝らなくちゃいけないことがあったハッシーへなんだけれど、

祈りの甲斐もあって無事に(?)謝罪できました。

ちょうど送迎で二人きりになったときに、思いきって切り出して。



http://pukui30.jugem.jp/?eid=28



ハッシー、鍵のことは全く気付いてなかったし、

「そんなことわざわざ謝らなくてもいいんだよ」と言ってくれた。

でも聞こえてようと聞こえていまいと、僕が無意識に放った言葉は、

決して正しいものではなかったから、本人に直接話せてよかった。

神様に感謝です。



明日がいよいよ、彼のデイ最後の日だ。

ここ一週間ほど「いきなり伝えたら利用者さんもびっくりするから」と、

帰り送迎間際、時間をとってハッシーは皆に挨拶していた。

何人かの方は涙を…号泣に近いくらい流されていた。



それが、ハッシーが今までしてきたことの「実」なんだと、僕は思った。



2.禁煙



…禁煙は二コレットの助けも借りて、そして何よりJesusが護ってくれてて、

何とか続いてる。まったく煙草に手を出さなくなって2週間になる。

つくづく、ストレスのはけ口に煙草を使ってきたんだなあと思わされている。

祈ることで、同じ状況にあっても、過剰なストレスを感じずに済むようになって

きてるので、煙草を吸う意味合いが薄れてるのかもね。良かった!



3.竜太牧師の証



非公認サポーターを務めるJLHチャーチ。毎週のメッセージをネット配信してくれてて、

これがまた、シンプルにバイブルを解き明かすうえ、生活に即した中身で、いい!

更新のたび、MP3プレイヤーにおとして、何かかしら聞かせてもらってる。励ましを受けている。

最近心にダイレクトに響いたのは、若いパスター、竜太さんの証。

なんと僕とは同い年なんだよね~。

1人の若者が、Jesusと出会うことで、ここまで180℃生き方を変えられるんだって、

感動したし、今の彼のJLHでのパワフルな活動の源を知る想いがする。

またエントリーを新たにして、取り上げるね。



「Jesus LifeHouse Media」



4.最近思いめぐらしていること。



「自分がしたいと思うこと」が「Jesusの本当に望むこと」なのかって問題。

問題ではないのかもしれないけれど[:あせあせ:]

例えば…僕はWEBサイト制作にも興味があるし、音楽も、写真も大好き。

それを何とかチャーチの活動にも活かしたいと考えてる。

ただ、それが神様の御心かどうか、まだ確信が与えられてないんだ。

自己実現のためにJesusを利用したくはない。

Jesusが「君はこれをしなさい」って言ってくださることがあれば、

力を尽くしてそれをしたい。それを待っているところ。



どうしたら、自分の賜物を十分につかって、

神様に栄光を返せるのかな??



道しるべが示されるように、祈っている。

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少し間が空いてしまったけれど、

今日は先週の水曜日、初めて「祈り会」に参加したときのお話。



続けて帯広バプテストチャーチに通い始めて3か月ぐらいになるだろうか。

僕の悲願は、ウィークデイにも教会の集まりに参加できるようになることだった。

日曜日だけ礼拝を捧げて、あとの時間を1人で過ごしていると、

だんだん独りよがりなクリスチャンになってしまう気がして。



ただ仕事が肉体的にも精神的にもなかなかハードだったこともあり、

機会を逃し続けてきたんだ。

先週、忙しさを言い訳にするのをやめにして、ともかく水曜日、

チャーチへ行ってみようと心に決めて、そうした。

結果は大正解だった。もっと早くそうしたら良かったよ。



何より嬉しかったのは、バイブルの学びもそうだけれど、

信仰を同じくする仲間と、生身で触れ合えること。

これは当たり前といえば当たり前ながら、自分の身で体験したら、

大きな力になるって実感できた。



祈り会の手順も、式次第(?)もわからなかったから、とにかく素で行った。

牧師のK先生と奥様、協力牧師のS先生、I教授、それからもう一人の女性の方、

あとは僕という顔ぶれ。初めてだったので皆から驚かれたけれど、

すぐに喜んで歓迎してもらえた。



賛美歌を歌い、バイブルスタディーに移る。

その日の箇所は「見捨てられるイエス様」。

ゲツセマネの園で祈られていたJesusが弟子たちと話していると、

弟子のユダが進みより、接吻をし、その合図で人々はJesusを捕える。

そこからの十字架への歩みは、Jesusにとってこの上なく過酷で、

孤独なものとなる。



Jesusは僕らの罪を担うために十字架へと歩まれたはずなのに、

救われる対象の、当の人々は、皆ちりぢりに逃げ去ってしまうんだ。



聖書箇所を読んで、プリントを輪読した後、皆で分かち合いをした。



Jesusに何があっても自分はついて行く、と誓ったはずなのに、

いざ危機が及ぶと、Jesusを見捨ててしまう弟子の姿に、

人間の弱さをみたり、



Jesusを一時は守ろうとして、弟子の一人が大祭司の手下に

剣で切ってかかり、その耳を切り落とした際にも、

Jesusは言葉によって諫め、決して武器に頼らなかった部分から、

力を行使することの無力さを教えられたりした。



K先生の言葉が印象深かった。



「人間はやはり、自分かわいさから逃れることはできない。

その弱さが、図らずもJesusを裏切ってしまう。

ただJesusは自らを裏切るとわかってなお、人々を愛し続けた。

わたしたちもそこまでの気持に辿りつけたら、もっと深く、

人を愛することができるのかもしれませんね」




祈り会で学んだのは短い部分なんだけれど、1人でバイブルを読んでいるときより、

はるかにいろいろな角度から意味を見いだせるんだよね。



それから皆、1人1人祈っていった。

僕も祈った。

信仰を共にする人たちと学べたことへの感謝や、

チャーチが内向きにだけならずに、外の、Jesusを知らない人々のためにも

働きかけられるようにと。



それは本当に、僕の願いだから。



これからも…祈り会にはどんどん出ようっと。



そういえば僕らのチャーチの年間ヴィジョンは「証に生かされ、証に生きる」なんだ。

ここ数日、ちょっとパワーダウンしてたけど、この拙いブログも、

ささやかな証として用いてもらえるように、また頑張ろう~~。



【追記】この時と比べて…2007/8/19現在、かなり信仰(神様への信頼)に関しての考えが変わってきてる気がする。一見後退に見えるこの変化…でもジーザスは無駄なことはされない方。期待してる!







禁煙ガム・二コレットを買った際、お店の人がくれた貯金箱。

いっぱいになったら、うふふ、あることに使おうと思ってます。




デイの主任さんが、7月いっぱいをもって退職することになった。

僕より2歳若い、ハッシーという男の子。

年齢を感じさせない落ち着きと気配りで、利用者さんからも慕われていた。

僕がデイに入った頃からの教育係でもある。

介護の仕事が初めてだった僕に、お年寄りと接するためのイロハを、

しっかりと教えてくれた。

プライベートの人間関係で消え入りそうな程落ち込んでいた頃にも、

仕事終わりにゆっくりと話を聞いてくれた。

そのことで揺れ動いた気持が落ち着きを取り戻せた。

僕が曲がりなりにも一年近くこの仕事が続けられているのも、ハッシーのおかげだ。

彼もまた「人の贈り物」だった。



ハッシーが利用者さんの前で体操をするとき、

楽しいキャラクターの利用者さんをコミカルにいじりながら、

皆を笑いの渦に巻き込んでいた。

そういう場をつくるのが上手で、人を楽しませる、天性の才能があった。

利用者さんの、その時のニーズを把握する能力も、

主任の名に恥じないものだった。

横になっていた全介助の利用者さんが入浴しようとするとき、

お風呂担当のスタッフが浴室で準備をしている間に、

すっと車椅子を用意してその方を移乗させ、

あとは脱衣室に向かうばかりにしていたり…、

コーヒーを入れたポットが、彼がいるときはいつも十分に満たされていたり、

ソファーでうとうとしている利用者さんに、タオルケットがかけられていたりした。



僕は後姿から多くのことを学んだ。



ひとつだけ、後悔していることがある。

ハッシーが家庭の事情で、仕事終わりになるべく早くあがらなくてはならなかった時期、

事務室で、彼がいないと思って言い放ってしまった言葉。



女性スタッフTさん「あ、プクイ。ここの鍵持ってるでしょ。

あたしちょっと残る用事があってさ。あとで一緒に出るときに鍵閉めてもらっていい?」

プクイ「いいっすよ。俺も仕事あるし。でも社員だったら他にも鍵持ってる人…、

ああハッシー、駄目か!彼、どうせす~ぐに帰っちゃうもんね!



ハッシーが、事務室の入り口に立っていたのに気づいたのは、言ってしまった後だった。

間違いなく、彼には聞こえていた。僕の心無い言葉が。



その日、ハッシーは鍵を閉めて帰っていった。



立て込んでいて、僕も疲れていた…先に帰る彼をどこかで裁いていた。

そんなことはただの言い訳に過ぎない。

神様に赦しを乞うしかないし、ハッシーがデイを去るまでには、

きちんと謝りたい。幸い、今週は彼と一緒に送迎に向かうチャンスもあるので、

必ずそうしようと思っている。



別れといえば、職員だけではない。利用者さんとの別れもある。

入院や施設入所もその理由だけれど、

今回は、ある方が亡くなられたのを知ったのだった。数日前だ。



例えば病院や、特別養護老人ホームとは違い、

日帰りのデイでは、利用者さんの死に直接触れることは少ない。

それでも…顔見知りの方が旅立ったのを知り、胸が切なくなった。



その方は年齢を感じさせない、童女のような女性で、

僕は何度も、お風呂上りに髪を乾かさせてもらった。

うっとりと目を閉じて、気持ちよさげにしていたのを覚えている。

その記憶が、急に亡くなられたことと、うまく結びつかない。



僕の仕事は人とこんな風にお別れすることと、無縁ではないのに気づかされる。

だからこそ、その日一日会えるのが、大切なんだよね[:ぴかぴか:]

前回の終りに書いた、「自分に与えられたものを数える」。

具体的にやってみようと思います[:楽しい:]



神様からもらっているタレントを、地面に埋めっぱなしにするような真似は避けたい。

最近そう思わされる。

掘り起こして土をほろい、大事に育てないとね。

そのために、神様が今現在の僕に何を与えてくれているか…

掘り起こしてみようと思う。



1.書くということ



僕は感情過多な人間だ。毎日、自分の内面で移り変わる気持に翻弄されてしまう。

書くということで、それを整理することができると知ったのは、

このブログを始めてから。

Jesusというフィルターを通して、その時自分が感じた想いを潜らせ、

成長に必要な事柄は残し、古傷から反射的に抱いてしまう好ましくない事柄は、

外へ出すことができる。そのことのありがたさ。



…韓国でJesusに出会った証を書かせてもらってるとき、特に強くそれを感じたんだ。

過去の自分自身に向き合うのは、折々で感じてきた孤独や劣等感と、

再び向き合うわけで、切なさが蘇ってくる。

でも何回か証を書いているうちに、与えてもらったものの大きさに、目が開かれた。

孤独を感じた留学時代に、神様はチャーチを与えてくれたし、

そのことを通して、人と完全に孤立することなく、Jesusへの道が開かれることとなった。

大きくマイナスに傾いた分、受けた恵みも大きかった。

改めて、それに気づかされた。



書くことの効能は“整理”の他に、人と繋がれること。その人を励ませること。



勿論、ノンバーバルの関わりも大切だ。

でも、人のコミュニケーションの大半は言葉を介してだよね。

だからこそ、与えられた言葉を、おろそかにはしたくないし、大事にしたい。

言葉によって心は温められたり、損なわれもする。

僕の言葉は…できれば人を励ますものであってほしい。



そのことがただのおもねりになってしまったら本末転倒だから、

正直であることは心がけたいけれど。



今、このエントリーを書きつつも感じている。

想いをありありと表現するのはなんて難しいんだろうって。

だけど、書くことは神様から与えれたギフトだという確信はあるので、

拙いながらも文章は書き続けたいな。



残しておきたいんだ。この気持を。



2.読むということ



読書。本は(以前は盗んでしまっていたくらい[:あせあせ:])好きだ。

紙の手触りや、ちょうどいい重さ。ページを繰るあの感じが良い。

本を読むことで、たくさんの人生に触れられるし、

あらゆる価値観に触れることで、自分の立ち位置を把握することだってできる。



バイブルが本という形で与えられているのも、ラッキーだよね。

神様の言葉が持ち運びできて、どこででも開けるなんて。

最近、やっと毎日バイブルを読めるようになって、嬉しい。

困ったら、ネガティヴな感情を抱いたら、なるべく早くバイブルを開き、

Jesusに立ち返ろうとしている。



バイブル以外でここ数日の間に読んだ本は、

『心の重荷に別れを告げて』マックス・ルケード 著

『翻訳夜話』村上春樹・柴田元幸 著です。

詩篇23篇を元に書きあげられた前者からは、

たったひとつの詩が、僕らの心配、絶望、罪悪感、恐れなどの重荷を

床に置かせてくれるのを教えられ、

翻訳名人の2人が語り合った後者からは、

翻訳にかぎらず、文章へ誠実に、愛をもって接することの

素敵さを教えられてる。著者の2人とも、話言葉がそのまま深い意味を

持っているのがすごい。

村上春樹さんが「良い文章に必要なのはリズムとうねり」と話されていたのに共感する。



3.時間



読んだり、書いたり、そのことで自分の気持を整理したりできる時間が

与えられているのがありがたい。

デイの周りの既婚スタッフを見ていると、自分だけの時間なんて取れない

方が大半なんだよね。特にお子さんがいると。

だからこそ、この時期にしっかりとJesusとの関係を深めて、

しっかりとキリストにある自己を確立したい。

それを願い求めていきたい。

独り者はわびしいなんて言ってらんない[:たらーっ:]



4.成長のための環境



まずはデイ。仕事は正直言ってそりゃあきついです。

お年寄りの楽しみのためには、自分が暗い顔をしてはいられないし、

時には芸能人ばりのテンションで場を盛り上げなくてはならないこともある。

常にアンテナを張り続けて、必要があったらすぐに対応しなくてはならない。

元・ひきこもりクンにはなかなか厳しい。



でもこの状態って、いわば鉄下駄を履いて走っているようなもので、

自然と鍛えられているんだよね。成長のために。

筋肉は負荷をかけないと強くならない。それと同じく、心や霊的な意味合いの

成長も、負荷がかかってこそ、進むのかもしれない。



そしてチャーチ。ここでは、まだ少し残っている人への恐れを、少しずつ

十字架につけて、消し去っているような感じだ。

勿論、信仰のうえでも、チャーチで起きる出来事によって、

神様の御心に想いを馳せたり、説教で気づきを与えられたり。

見事なまでに、そのときの状況に相応しい気づきが与えられるんだ。



チャーチもまた、成長するための素晴しい環境のひとつ。



5.Jesus、バイブルに立ち返れること



何といってもこれが一番与えられたものの中で大きい。

僕は決して強くないので、日々の状況で気持が揺らいでしまうことも多々ある。

そんなときはいつも、懸命にJesusに立ち返ろうと願う。

バイブルの言葉にしがみつく。

一日のうちに何度もそうしなくてはならないときもある。



Jesusは変わらない。そのことに安心する。

信仰が薄くて、揺れるのは自分だ。

そしてJesusは帰ってくる者をはねのける方ではない。

だから安心できる。





こうして数え上げてみると、1つ1つの恵みが、それぞれにとても大きいことに気づく。

どれをとっても、土に埋めたままになんかしておけない、お宝だ。

事の始まりがこんなにも素敵なものだとしたら、先へ進んで行ったら、

どこまで大きな祝福になるんだろう。気が遠くなりそうだ。

神様の前にひざまずき続けること。そのことを示される。

日々、僕は小さな頭で、様々なことについて考える。

あらゆる物事が浮かんでは消えていく。

デイのお年寄りの体調、スタッフの連携具合、昼食の配膳、

これまでの自分、これからの自分、結婚について、

チャーチの人々のこと、クリスチャンブログについて、

webの可能性…そして勿論、Jesusのこと。



そしてぐるぐるになった頭で、また自分が、

自分だけで事を行おうとしているのに気づかされる。

大いなるものを頭の中だけでこねまわしているのに。



神様が、全てを造られた。全てのものは、神様が認められたからこそ、存在している。



僕に、太陽を輝かせることはできない。

僕に、惑星を回転させることはできない。

僕に、他者の心を変えることはできない。

僕に、昼を夜に変えることはできない。




自分が信じているのは、それが全てできる方なんだ。

そして何より素晴らしいのは、Jesusの十字架での贖いの業を通して、

その全能の神様が、ある意味で無力な僕らに愛を示してくれていること。



僕は弱い。だから多くのものを、この世の欲望を、心の奥底では求めてしまう。



気の置けない友人。新しいカメラ。文章力。読みたかった本。

人から認められること。比較的楽な仕事…。



でも、そんな卑小な考えは、神様の前では簡単に吹き飛んでしまう。



だからひさまずいて、どれほど人の目にはささやかなものでも、

与えられている賜物を喜んで受け取りたい。



それは自分のためだけに、宇宙規模の神様がわざわざ用意してくれた、ギフトなんだ。



勿論、その中には、この世での喜びだって含まれるはずだ。

ただ、僕が思わされるのは、神様は魔法の杖でも、四次元ポケットでもないということ。

自分の欲を叶える方ではないということ。



明日から…具体的に僕にあたえられているものについて、考えてみよう。

それを整理して、伸ばしていけそうな賜物は神様に成長を願い、

自分のためだけの欲は、外へ放り出せるように。



それが今、すべきことのような気がするんだ。








昨日はすうっと意識がフェードアウトして眠りにつけた。

今朝、体調は無事にもどって、何とか今日一日の勤めを終えられた。

ありがとう、Jesus。



不眠の原因をつらつら考えてみて…はたと気づいた。

禁煙ガムの食べ過ぎだ[:汗:]

ただ今…僕は禁煙中。恥ずかしながらつい最近まで、煙草と縁が切れなかった。

19で東京に行ってから喫煙を覚えて、以来断続的に煙草をやめながら、

ずるずるとここまできてしまった。



韓国留学中なんてすごかった。昼ごはんを食べずに、

寮の自分の部屋にもどって、煙草を6本ばかりチェーンスモークし、

煙たい姿で教室へすごすごと向かってた[:悲しい:]



ストレス→喫煙という図式が、自分の中でできあがっていたんだ。

そういうのはもういいでしょう、と思った結果、今の禁煙に繋がってるんだけど、

逆に針は極端に振れて、今度はガムの噛みすぎだ。



頭がさえ過ぎてしまって、このところしばらく寝つけなかったんだろう。

昨日、ガムの量を減らしてみたら、てき面に寝つけたもの。



今晩はどうだろうか。



…今日読んだバイブルの箇所で、響いたところがあった。



「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。

務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。

働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。

一人一人に”霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです」


(第一コリント12:4~7)



ブログ仲間の日々の証に触れるのは、以前から僕にとって大きな喜びだ。

最近なら、しもさんのブログで、ヒルソングのカンファレンスの話題を読み、

数万人のクリスチャンが同じ生ける神様を賛美する様に感動したり、

宇宙そのものを創られた神様が、限りなく小さな僕らを愛していることに震えたり…、



そしてまた、Izumiさんの今日のブログでは、

主が、また新しい御業を、JLH大阪という場所を通して始めようとされているのを知り、

御国の拡大にわくわくさせられたり…。



mimoさんがチャーチのリソースチームで、

素晴らしい仲間に囲まれて奉仕する姿を知ったり。



あとはクリスチャン夫婦のブログで、神様から与えられた人を互いに愛する様子に、

こちらまで熱くなってみたり。



ただ、その心の嬉しい震えの中に、一抹の羨ましさを感じたのも、正直に告白する。

いいなあ~、と思ってしまったのだ。単純に。指をくわえて。



そんな僕が今日の御言葉に教えられたのは、「そんなに人を羨まなくていいよ。

あなたには、あなたに相応しい務めを、わたしが用意しているよ。

だから期待しなさい」
ということ。



僕ら一人一人に、それぞれの環境で、それぞれの成長度合いに応じて、

主が務めを下さっているのは、それが全体の益になるためなんだ[:ぴかぴか:]



一見、地味にしか感じられなくても、確かに聖霊様の力が、僕らの内側で

働いて、個性と賜物を活かした道を歩ませてくださる。

主のマスタープランに基づいて。

 

自分のちっぽけな考えや羨望を遙かに超えた先で、神様は働いているんだ。

とてもほっこりした気持になった[:ニコニコ:]



嫉妬は僕にとって、手を切れない悪友のようなものだった。

でも、Jesusは僕に「他ならない自分自身」を与えてくれているんだから、

余所を嫉妬する暇があったら、今与えてもらっているものに目を向けよう。



…すぐ手に入らないものに思いを馳せているうちに、

今という時間が指の隙間からこぼれおちていく。それはあまりにもったいない話だ。



だから先に期待しつつ、今示されていることから、離れないようにしないとね。



ありがとう、神様。






地震の被害、死者9名に負傷者1000名以上…。

地震が起きたエリアは、ブログ仲間のしもさんが育った地元なのだそうだ。

彼女のブログで知った。

親族や友人の方には命の別状はなかったとのこと…まずは良かった!!

引き続き祈ろうと思う。



…そんな僕自身も、昨日の晩は何だか眠れずに、

結局明け方近くとろとろと寝入って、結局3時間睡眠[:あせあせ:]

目覚めた後、だるさを含んだ結構な体調不良で、

今日は無理を言って、デイをお休みさせてもらった。

スタッフ人員ぎりぎりなのに申し訳ない。



(そして夕方知ったのだけれど、今日本来なら休みのはずのセンター長・M兄さんが、

わざわざ出勤してくれたみたいだ。ひええ、恐れ多い[:汗:])



ちょいと反省猿になって考えてみたら…、

先週はあんまりしっかりと、勤務中に休み時間をとっていなかったんだよね。

ちょうど休みのあたりで突発事態が起こって、

それに対処しているうちに時間が過ぎていった。

お風呂のお湯張り替えだとか、

その日誕生日の利用者さんに手製のお祝いカードを作るだとか、

…日を追うごとに疲れていってるのに、

人にあんまり任せずに、あれこれ引き受けてしまうことが多かった。



その時は「大丈夫だよ~~ん[:るんるん:]」なんて言っていたけれど、

結局こういうカタチでお休みすることに

なっちゃうんだね。気疲れや体の疲れが、少しずつ積もっていって。

大きく迷惑をかけてしまうくらいなら、ONとOFFの切り替えにもう少しうまく慣れて、

息の長い体力や精神力を身につけないといけない。

そう猿は反省しました。



仕事に限らず、最近、したいことがいろいろと出てきたから。そういう意味でも。

チャーチのwebサイトを作るための学習。基礎の英語。聖歌隊の練習。

人との繋がりを持つ練習。あとはこのブログも、そうだし。



日中はうつらうつらしながら、過ごした。

目覚めてる間は、リック・ウォレンの『人生を導く5つの目的』を部分的に読んでいた。



「あなたの弱さの中に働く神の力」の章。

ちょっとシェアさせてもらうね。



神様は、僕らの弱さに対して、僕らとは違った考え方を持っている。

神様は人の長所を多く用いられる方だと、つい僕らは思ってしまうけれど、

神様はその栄光を表わされるために、人の弱さをも用いられるんだ。



弱さ。それは自分で変えられる欠点とは違う。

むしろ、自分が遺伝的に受け継いでしまったものや、自分では変えられない状態を指す。

ハンディキャップや慢性的な疾患、痛ましい記憶といった、肉体的、情緒的制約を。



そんなどうにもできない自らの限界に想いを馳せるとき、僕らは、

「自分のようなものが神に用いられるはずがない[:ポロリ:]」と、つい諦めたくなってしまうかもしれない。



しかし、神様はごく普通の人に、喜んで偉大な力を与えてくださる。



バイブルの言うとおり、僕らは「土の器」に過ぎない。

もろく、傷つきやすく、壊れやすい存在だ。

しかし、自分の弱さを通して神様に働いてもらうとき、僕らは神に用いられる器になる。




自分が不完全であることを正直に認めること。それが必要だ。

否定的になったり、言い訳をするのではなくて、

心を静めて、自分の弱さを認識すること。



弱さを受け入れることも大事みたいだ。

弱さを覚えるとき、そのゆえに僕らは神様により頼むしかなくなるから。



そして「弱さの効能」。弱さは、悪いことばかりではない。



弱さを抱えると、人は驕り高ぶらなくなる。

力は人を孤立させるけれど、弱さは人を必要とする。

そのため、他者との交わりを深められる。

何よりも、弱さは人に対しての思いやりを深め、僕らのミニストリーの能力を高める。



最も効果的なミニストリーは、僕らの最も深いところの傷から、生まれてくるそうだ。

一番恥ずかしく思っていることや、とても人と分かち合えそうにない、

まさにそのことが、他者を癒すために神が用いられる、最も力強い道具に変わるんだ。



…僕はここでJesusの十字架をまた思い起こす。最も深い傷。

十字架のうえでのJesusは無力で、これ以上ないくらい弱かった。

(あえてそうしてくださったにしても)

それが復活によって覆されて…十字架は「最も力強い道具」に変わったんだよね。



神様が僕らの弱さを用いたいと思われる理由、それは、

弱いにもかかわらず、神に用いられる姿を通して、人々を励ましたいから。

「私のような弱いものでも、用いてくださるかもしれない」という、

希望を他者に与えられるから。



『すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう』(第二コリント12:9)



僕にも多くの欠点・弱さがある。

移り気で、短気で、片付けが下手。現実的な事務処理にとんと弱い。

ひどい肩こり持ち…。

変えるために努力できそうなものもあるけれど、

神様からの憐れみを求めるしかない欠陥もある。



変えることのできない弱さを通して、Jesusが働いてくださるよう、願い求めよう。



…今日はこういう話するつもりなかったんだけど、書いてるうちにでてきちゃった。

不思議なものです。






ここ帯広の七夕は、どういうわけか8月7日にあるらしい。

今日はフロアで七夕の飾り付けをしていて、

結局12時間ぐらいデイにいた…。

延々と笹の絵を描いておりました。

お腹の空いたパンダのような気持になりました[:あせあせ:]



AM10時過ぎ、利用者さんとの体操中に、新潟で地震が起きた。

フロアのテレビに速報が映し出され、

しばらく体操を中断して、皆でテレビを見た。震度6強。

仕事からあがって、自宅でご飯を食べながら、

続けてニュースで被災地の様子をみた。



死者7名(全員お年寄りだ。やりきれない!)、

怪我人は800名以上。とんでもない被害だった。

被災地の皆さんも、「その時」までは何でもない、

いつもの日常を送っていたわけだ。

それがいきなり、自衛隊の救援車が水を届けてくれるのを

心待ちにしたり、

体育館で一夜を過ごしたりするようになるとは、

夢にも思っていなかったはず。



本当に心もとないと思う。



僕にできることといえば、ひとまずは祈ることぐらいだ。

奇麗ごとと言ってしまえば、それまでの話だろうし、

神様と天災というものの繋がりを、

僕はまだ、うまく捉えることができない。

でもそんな中でも、まずは被災地の人々の心と体が護られるのを、

祈り求めようと思う。



たった今、あの人たちは死ぬほど不安な夜を過ごしているのだ。



具体的に、この場所から少しでもできることを考えるのは、

それからだ。



今まではこんな気持になりはしなかった。

どこかで人ごとだと感じていたから。

自分じゃなくて良かったとさえ、思っていたかもしれない。



でも今は…少しだけ違うんだ。






昨日の日曜はチャーチで礼拝中、事情があって皆と離れ、2階に上がっていた。

僕はそこで、Jesusの癒しの御業を見た。

祈りには力があるということをまざまざと見せつけられた。



礼拝が終わった後、一大事が起こった。

チャーチに通う5歳の女の子が、転んでイスに頭をぶつけ、怪我をしてしまったんだ。

僕たちが聖歌隊の練習をしていたら、その子の友達の女の子が近づいてきて、

2階の方を指差し、「血が出てるの…」と言った。

皆で駆けつけてみると、5歳の女の子は、額から血を流していた。

すぐに抱きかかえられて、下へ降りる。

協力牧師のS先生が救急病院を調べ、お父さんは血相をかえて車を取りに走っていった。



チャーチの女性が女の子の額をタオルで押さえている間、

K先生と奥さんが、その子にもわかる言葉で、癒しを願う祈りをした。

「イエスさまがいたいのをなくしてくれますように」

いつしか女の子は泣きやんでいた。



車がチャーチの玄関前に停まり、K先生が女の子を抱きかかえて、助手席に乗り込んだ。

皆で回復を願う中で、車は病院へと走って行く。



…送り出したあと、何人かで、階段に点々と付いた血の跡を拭いた。

とても痛々しかった。

僕も濡らしたティッシュで、床をぬぐった。



女の子の傷が、完全に癒されるのを祈りたい。



チャーチを後にして、I先生とランチに向かった。

今日わかったことなんだけど、I先生、実は大学教授でした!

若々しい風貌から、助教授か講師の方かと思っていたら…お見それしましたっ[:汗:]



しかし大学教授と差しで昼ごはんを食べられるとは…、

しかもおごってもらえちゃうとは…神様の家族って不思議だ(笑)。



入ったイタリアン・レストランはカップルと若い女性のみで構成されていて、

僕らは抜群の違和感を放っていた。



祈って食事しながら、“痛み”についての話をシェアできた。

I教授も、学問の世界でいろいろと大変なところをくぐられてきたみたいだ。

みんな学がある分、嫌がらせも陰湿になるというか。



Jesusの姿にも通ずるところがある。Jesusも、その戒律に捉われない

愛の教えが、当時の宗教家たちに妬まれて、迫害を受けた。



教授は若くて才気溢れる人だったので、妬みも受けてきた。

ただ本当に辛いとき、その痛みをくぐれたのは、自分のしていることを信じて、

共に研究してくれた仲間がいたから。

(その当時、教授はクリスチャンではなかった)



辛い場面をくぐったのは、自分にとって良かったと、教授は言った。

クリスチャンになってから、その経験が活きたという。



本当に人が、癒されるためには、血をながすほどの苦しみをくぐらなくては

ならないのかもしれない。安易な、その場しのぎの気休めではなくて、

根元から変えられるためには。




それから、韓国のチャーチの話になった。韓国のクリスチャン人口は、国民の25%。

日本から考えたら、ものすごい数だ。

ただ、人が多い分、様々な功罪もあると思った。



その善き部分は、僕も留学中に救われたとき、たっぷり感じた。

ハングサラム(韓国人)は、人に温かい。仲間意識が強く、人を放っておかない。

沈んだ顔をしていたら、すぐに「大丈夫か?一緒に飯でも食うか?」と尋ねてくれる。

韓国にいた当時は、その愛を受け止める余裕が自分になかったけれど、

今振り返ってみると、それがいかに大きな恵みだったかを思い出せる。



僕が通っていたドンスン教会には、今までの歴史を超えて、

日本を愛そうと決め、そのことに重荷を感じる人も何人かいて、

いつも日本のために祈っていた。実際に、宣教のため日本へ向かった方もいる。

神様が彼らの心を柔らかくしてくれなかったら、決してありえない行為だ。



でも…反面、情熱が度を超すと、ただの独善に変わるところがある。

それがあまり好ましくない一面。

自分が正しいと思っていることは、相手にとっても絶対に正しいと押しつけてしまう、

一部の人々がいる。このたぐいの人々にも、留学時代にたまたま行った、

他のチャーチで触れた。

あまり良い印象は残っていない。どこかで奢りが透けて見えた。

神様を信じている自分自身に酔いしれてしまっているような。



良くも悪くも、同じコインの表裏なんだけど、出てくる絵柄は随分違うんだよね。



僕にもその、韓国の血が流れている。そのことを感じる。

だから、独りよがりに陥るのだけは、自戒して避けなくてはならない。

熱心さで他者を傷つけることをJesusが望んでいるとは、到底思えないもの。



そして、召された神様の家族が、互いを傷つけることも。



もし誰かが、その過剰な熱心さに傷つけられてしまったとしたら。

Jesusに祈り求めたい。同じ民族として。

傷ついた心が、大切に取り扱われて、癒しが与えられるのを。

それには痛みが伴い、血を流さなくてはならない時もあるかもしれない。

けれども、そこをくぐり抜けたら、必ず平安の地へ導かれるはずだ。



「イエスさまがいたいのをなくしてくれますように」








最近、自分のカタチについてよく考える。

ブログをはじめるしばらく前から、ようやく本当の意味でJesusの導きに従いたい、

という気持が湧いてきたわけだけれど、そうなると自分の現在地のようなものが

気にかかり始めたんだ。

そこから始めるためのスタート地点というべきもの。



そこで試しに…と、今日は家に帰ってから、

本棚から以前古本屋で買った性格テストを引っ張り出してみた。

その本は人を9つの性格タイプに分けて、傾向や偏り、指針や何かをしめしているもの。

けして占いではなく、あくまで、傾向。

バイブル以上に、自分に指針を示してくれる本は無いことを承知しつつ、

参考程度に試してみた。



つらつらと眺めていて、うわあ、これ圧倒的に俺ですよ!というタイプが見つかった。

笑ってしまうほど僕そのまんま。



それはタイプ4の“特別な存在であろうとする人”



このタイプは、常にドラマチックな感動を求める理想主義者で、

ありきたりでないものや、芸術的なもの、深い意味のあるものを、

どこからでも見つけようとするらしい。



創造的な性格ながら、感情表現は大袈裟。まわりにいる人の気分を引き立てることが

できる反面、落ち込みや挫折感も大きい。



自分には何か欠けているという欠落感から、逆に自分は特別な存在なのだという態度が

生まれる。また、ほとんど不可能と思われる目標を設定して、

ありのままの現実に目を向けようとしない。ないものねだりをしがち。



生きることへの葛藤を常日頃感じているため、他人が苦しんでいれば心から同情し、

自分の問題はそっちのけで手を差し伸べる。



生い立ちのうえで、自分は「見捨てられた存在」で、無条件に注がれる愛情から

引き離されている……無意識のうちにタイプ4はそう感じているため、

完全な愛情を求めることに夢中になる。



メランコリーといった、深い感情を、創造へのエネルギーとして使う。



向いている職業は、芸術家、音楽家、心理学者、カウンセラー。



これは僕だ[:汗:]正確に言うと、Jesusを知る前の自分にぴったり当てはまる。

しかし極端で難儀な性格だよね。よく生きてこれたよな。



駄目押しで、こんな場合のタイプ4は……。



☆ストレスを受けると…

「人を惹きつけ、認められたいと願い、対人関係で駆け引きし始める」



☆心が安定しているとき…

「冷静になると理想主義者の側面が現れるため、自分や他人に対して批判的になる」



安定してないじゃん!それ![:冷や汗:]当たってるけれどさ。



タイプ別の後半には、指針めいたものも書かれていた。



☆空想の世界から現実にもどるために、体を動かすこと。

☆ありふれた日常生活を見直して、楽しむ。平凡な事柄の中に、特別なものを見出すよう

 心がける。

☆自分が嫉妬の感情を抱く他者の長所を、自分の中にも見出す。

☆他人の痛みに過度に巻き込まれることなく、相手に同情できる才能に自信を持つ。

☆激しい感情を抱く際にも、日常生活を投げ出さないこと。自分のためになることを

 最後までやり遂げるべき。



こうして見てみると、欠陥も多々あるものの、伸ばしていけそうな部分も見受けられる。

同情心を活かしたカウンセリングの賜物(確かに心の問題には深い関心がある)だとか、

それこそ、もっと若いころからずっとヴィジョンとして持ち続けていた芸術への志向だとか。



激しい感情を御すことを覚えられたら、少しずつ善き傾向も芽吹いてきそうだ。

それはもちろん、Jesusが与えてくださるものなのだけれど。

好ましくない側面は、沈殿させていって。



いままでこの類の本って読んだことが無かったけれど、

なかなか新しい視座が与えられて面白いし、具体的に神様へ願い求められそうなので、

触れてみて良かったと思う。決して、溺れることはないものの。



この性格テストは「エニアグラム」と呼ばれている。

web上でも、広く紹介されているみたいだ。興味があったら一度ご覧あれ。

あらまほしけれ。



「エニアグラムとコーチング」








今日は昨日とは打って変わって、利用者さん少なめの静かな、

凪いだ一日になった。イッツ極端![:びっくり:]

皆で七夕の飾りつくったり、お喋りしたりと、

くつろいだ雰囲気だったよ。



神様がねぎらってくれたのかもしれない。



祈りは魔法の杖ではないから、何でも自分の思い通りになるわけではない。

でも昨日「少しばかり疲れもうした…[:あせあせ:]」とお祈りしたら、

今日のこの答えでしょ。とても感謝したんだ。



そうそう、来週の日曜日と月曜日。

尊敬する名古屋の牧師・カウンセラーのジョシー(石原良人さん)が

札幌にやってくるんだ~。懇親会と講演会のために。

万難排して駆けつけたいところだけど、状況は厳しいかなあ…。

とても悔しいよ。



ジョシーはあえてキリスト教のことは前面に押し出さずに、

心や潜在的ひきこもりのカウンセリングを通して、

Jesusの愛と、開放的なコミュニティーを人々に提示してる、

とても素晴らしい人なんだ。前からその考えに強い影響を受けてた。

JLHと同じぐらい。



ジョシーに会いたい!とても会いたい。



こんなに近くに来るのに。



でも、願い続けていれば、必ずいつか、顔を合わせる日が来ると信じてる。

いつかわからないその日を心待ちにしている。



ジョシーは、仲間の方々とブログもされている。紹介しますね。

ジョシーのココロが楽になるブログ「心の居場所」





ぜひぜひご覧になってみてください。

僕は何回も助けられたよ~~。



…神様、今日も1日、「その日を生きる」ための力を与えてくれて感謝します。

明日も乗り切って日曜、チャーチで何のてらいもなく、あなたを賛美できるのを

待っています!






今日はデイに26名もの利用者さんが来られて、

しかも僕は司令塔にあたる、リーダー係を仰せつかった。

一日こてんぱんでした。もうへろへろ[:悲しい:][:汗:]



でも、あちらこちらから判断をあおがれ、報告が降り注ぎ…

って過ごしてる間、要所要所でJesusに助けを求めていた。

それは今までできていなかったことだ。



そうすることで、起きていることは変わらなくても、

こちらの意識が変わる。

今起こってることは神様からの試練なんだ、って(少しは)思える。



バイブルからの言葉。



「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはすです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に逢わせるようなことはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(第一コリント10:13)







「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。

信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」(ヤコブの手紙1:2~4)







「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と

証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現われるときには、賞賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」(ペトロの手紙1:6~7)






おやすみなさい。










うちのデイをとても気に入ってくれている、ある利用者さんがいる。

華代さん(仮名)という。



朝、華代さんを乗せた送迎車がデイに近づいて行くたび、

「ああ我が家に帰ってきた…」と、にこにこしながら仰る。

心根の優しい人で、他の利用者さんがソファーに横になると、

席を立ち、タオルケットを取りにいったりしてくれる。

時々、スタッフが後を追うほどだ。

いつもスタッフから、「次までに制服つくっときますね!」と言われている[:楽しい:]



華代さんは、時々「職員の皆さんに」と差し入れを下さることがある。

本来ならご法度だけれど、想いを無下に断ることができず、

お気づかいなく、と言いつつ、頂戴している。



今日、ちょうど僕が華代さんの送迎にあたった。



挨拶をかわして、手を繋いで車へ向かう道すがら、

これどうぞ、との言葉を添えて渡されたビニール袋。

その場でがさっと開けてみるわけにもいかないので、

例によって、「いや本当にお気づかいなく~~」なんて言いながら受け取った。



夕方、ミーティングのあと、皆で袋の中を見させてもらった。

すると、センター長のM兄さんが僕に言った。

「これ、お前にだよ」



中に入っていたのは、インスタントコーヒーの瓶だった。



フタの上に、小さな紙が貼ってあり、そこには達筆でこう書かれていた。



「カメラマン様へ」



華代さんは、僕がデイの日常アルバムをつくるために、

折に触れて、さりげなくフロアでカメラをかまえていたことを覚えてくださっていた。

労いの意味を込めて、差し入れを下さったんだろう。



写真が大好きな僕にとって、カメラを持っている姿で、

華代さんに存在を覚えてもらえたのが、何より嬉しい。

名前で呼ばれるよりも。ずっと。



そして、華代さんが知っていたとは思えないけれど、

実は僕は…コーヒーが大好きだ。



こういう出来事があるから、仕事でへばっても頑張れるのかもしれないね。












朝目覚めるたびに、そのことを当たり前だと思えない。

神様がそれを許してくれる不思議さを感じるし、ありがたい。

昔は何かの刑罰みたいに思えた目覚めも、今では新しい機会だ。

またひとつ、神様を知るための時間が、許されることへの。



今日は平日の休日だ。

最近の天気はどうかしていて、曇りと晴れを交互に繰り返している。

今朝はおそろしく晴れた。バイブルを読んでから祈って、起きだす。



明日から来週にかけてしばらく、ばたばたしそうだ。1日無理せず過ごすことにする。



妹が先陣をきって仕事へ向かい、追って父と母が仕事場へと出かける。



午前中は居間を占拠して、前に録画しておいたYMOの番組を観る。

NHKの『プレミア10』。

いや、YMOは本当に格好いい大人だなあ。



番組はヒューマン・オーディオ・スポンジ名義で行われたYMOのライブを軸に、

3人のこれまでの歩みを振り返る内容で、1時間あっという間だった。

HASのライブでの曲もいくつか演奏された。

年齢と共に尖りが無くなって、心にじんわりと直接しみ込んでくるような音楽だった。

音楽、といえば坂本教授が3歳だった娘、坂本美雨さんのためにつくった名曲、

「ONGAKU」も演奏されて、気負いのないやわらかい曲調が良かった。

口ずさんだ。

そのあとの「ライディーン」まで口ずさんだもの。テーテーテー、テッテッテテッテケテッテテーって。

居間に間抜けさが漂った。



僕のテクノ好きはYMOから始まってる。

YMOを経て電気グルーヴに繋がり、そこからいろんなアーティストにたどりついてる。

それにしても、

細野さんなんて60歳になんなんとするのに、この格好良さ(と、良い声)はなんだろう。

ユキヒロさんの洗練と、教授の色気、こちらも年齢に関係ない。



僕はクリスチャンだから、勿論今後の目標はJesusに近づくことなんだけど、

YMOからも学ぶことは多い。素敵すぎる。






あああ、格好いい!



昼食はチープに紺のきつねそばをすする。

きつねそば…あぶらあげ好きの僕にはまことに嬉しい代物だ。

赤いきつねと緑のたぬきしか無かった昔、「このアゲが蕎麦にのっていたら…」と

熱望していたんだけど、

これが出てきて躍り上ったどうでもいい記憶がある。



それにしても何故、紺……と思ったしばらくあと、

「あ~~~!きつねから来てますか!」と閃きが与えられたのも覚えてる。



午後は少しだけデイに行って、利用者さんの日常フォトアルバムをつくる。

小一時間ほど。写真はやはり嬉しい。

あの時の楽しかった記憶が、目に見える形に定着していくのが。



事務所で作業していたとき、

例のプクイブルーが襲って来た。

フロアから聞こえる、利用者さんとスタッフとの楽しそうな笑い声を聞いているときに。

これは、昔の個絶してた生活の後遺症だな、とすぐに思った。

仲間だとか、ふれ合いだとか、そういった欲しくても手に入らなかったものを惜しむ気持。

いつも蚊帳の外にいたあの頃の、心もとない気持。



僕のなかには、まだ手傷を負ったもうひとりの自分がいると思う。

癒し主のJesusが、それを今、じっくりと治してくれている最中で、

いずれその2人は、統合されていくと信じている。



…ブルーな気分には以前に比べて慣れてきたので、

来た、と思った時点でJesusに助けを求めた。

デイを出てからもしばらくざわめきは続いていた。



でも、おしみないくらいきれいな空を見ているうちに、少しずつ、気持が治まってきた。

思わず写真を撮る。手癖。






この街の空は、贅沢だ。何もない分。

東京で見ていた空は、なんとなく高い建物に阻まれていたし、

韓国の空は淡水画のように薄かった。



空を見るたびに、神様の果てしなさを感じる。これほど圧倒的な光景は、

とうてい人には作り出せない。夜、星を見るときも思う。

そのひとつひとつの距離と、おびただしい数。

ロマンチック!と莫迦にされそうだけど、本当に不思議じゃないだろうか。

神様が宇宙そのものを造られた。その無限大の存在が、

極小とも言える人間を、愛してくれていることの恵み。

髪の毛一本までも知り尽くしてくれていることのありがたさ。



僕は些細な事柄につい囚われてしまいがちな小さい者だが、

そんな人間でも、大きな神様が顧みてくれている。



なんてすごいんだろう。



神様の約束の力。わたしがあなたを担うという宣言。



僕はそれを知りながら、行きつ戻りつする。でも、どれほど横道に分け入ろうとも、

神様に続く道(Jesus)は変わることなく、そこにあり続ける。

何度立ち返っても、そこにある。




それがクリスチャンにとっての、希望だなんだよね。



それから家に帰って、僕は音楽を聴きながら、少し眠った。

しばらくして起きだして、このエントリーを書いている。



…ほとんど1人でいたのに、いろいろな出来事があった気がする。そんな日だった。








昨日の日曜、晴れた空の下、自転車でチャーチへと向かいました。



最近やっとチャーチの人たちに対しての気おくれが薄れてきて、

変に気を使うことなく、一緒に神様を讃美できるようになった。嬉しい。



K先生の説教は、

イザヤ書から材をとった「わたしが担い、背負い、救い出す」というもの。

とても励まされたよ!



聖書箇所はこうだった。



「ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。

彼らの像は獣や家畜に負わされ、

お前たちの担いでいたものは重荷となって、

疲れた動物に負わされる。

彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。

その重荷を救い出すことはできず、

彼ら自身も囚われて行く。

わたしに聞け、ヤコブの家よ。

イスラエルの家の残りの者よ、共に。

あななたちは生まれた時から負われ、

胎を出た時から担われてきた。

同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、

白髪になるまで、背負って行こう。

わたしはあなたたちを造った。

わたしが担い、背負い、救い出す」


(イザヤ書46:1~4)



優しいという字。人を憂えると書く。

重荷に苦しむ人の傍らで、共に憂える、一緒に重荷を背負うことが、優しさ。



人にはそれぞれ、自分自身にしか背負えない重荷がある。

でも、人には限界がある。

その重荷を、いつしか背負いきれなくなってしまうときがくる。

そんなとき、自分の力だけでは担いきれない重荷を共有してくれるのが、生ける神様だ。



それは、一時しのぎではなく、

気休めでもない。

救いは…全て生ける神様から来る。



聖書箇所の初めの方には、人や獣に担われる、

偶像の姿が出てくる。

当時、イスラエルの人々が捕らわれていたバビロンには、

たくさんの偶像があり、

式典がある際に、こうして運ばれていたのだそうだ。



神のはずなのに、獣や人の力を借りて運び出される無力な像。



…対して、生ける神様はこう言うんだ。



「わたしが担う」と。



神様が人を造ったのだから、その一生、初めから終わりまで、

僕たちは神様に担われる。

本当にそうかどうか…僕たちが感じられない時も、

一方的に、ただ恵みで、神様は僕たちの重荷を負い、

僕ら自身を救いだしてくれる。



そしてもう一つのキーワードは「わたし」



他の誰でもない、神様ご自身が、「わたし」が、

情熱を燃やして、

僕らへの責任を果たされるという意志が、そこにあらわれている。



その証拠として、僕らに与えられているのがJesusなんだ。

目に見える形で、神様が僕らを救ってくださることへの、確かな証拠。



僕らの生活には、時折、耐えがたいほどの苦難が襲い掛かることがある。

それをくぐり抜け、「あの苦しみがあったから、今のこの生活があるんだ」と、

僕らが言うことができるのは…神様が重荷を背負ってくださるから。



それはどんなに安心できる、約束だろう。



…………



礼拝が終わって、聖歌隊の練習が済んだあと(声出せるのがうれしい!)、

またもI先生の紹介で、人の贈り物が与えられた。

先生と同じ学校に在籍してる男性、H兄さんと、

チャーチで見かけてはいたものの、

話す機会のなかった女の子、Tさん。

にわかユースグループはI先生の送迎で、ファミレスへ向かった。



Hさんはクリスチャンではないので、

会食の最初から、ばりばりのJesusの話題にはならず…、

サラダバーでたんまり取ってきた野菜をつつきながら、



プクイ「ドラクエ9ってDSで出るらしいッスね!」

Hさん「発売11月らしいよ」

プクイ「俺、買いますよ~~」



といった、コミケ帰りの電車男のような話をした[:汗:]

…面白かったけどね。俺、ゲーム好きでもあるから。



そんな中、おっとりガールのTさんは、静かに笑いながら、

ペペロンチーノをフォークに巻きつけていた。



自分が新しい人と知り合いになれるなんて、

何だか信じられない。昔の自分に教えてやりたい。

僕は何の努力もしてない。ただJesusが与えてくださるんだ。

すごい恵みだと思う。



今のチャーチが、それこそジーザスライフハウスのように、

若者の熱気で満ちること。それが僕の、1つのヴィジョンだ。



Jesusが必ず成し遂げてくださると、信じてる。



神様、また、素敵な人たちをありがとう!












今日で久しぶりの5日連続勤務が終わり。ハードな1週間だった。

デイではいろいろな役割分担で1日を過ごす。

主なもので、フロア係、入浴係、そして全体の流れを把握して調節する

リーダー業務。

今日、連続勤務の最後に、そのリーダーが当たった。

これはかなり気を張るんだよね。朝から利用者さんの体調や薬を確認して、

日中はフロア、お風呂組と連携を取りながら円滑に時間をまわしてく。

合間に利用者さんへの連絡ノートを書いて、夕方の送迎後は、

その日の各利用者さんの様子を介護記録にまとめていく。

休み時間もきっちりとれない。



愚痴ではないんだよ。慣れてきたとはいえ、とにかくハードだったということ。



Jesusが一緒にいてくださるからこそ、乗り切れたと思う。



仕事が終わったのは7時近く。

そのまま家に帰るのを少し遅らせて、近所をぶらりと歩きながら、

自前のカメラで写真を撮っていた。



僕は写真が大好きだ。

ファインダーをのぞいて、シャッターを切る時、世界と繋がれるような気持になる。

その一瞬だけ、周りの風景と自分とが2人っきりになれるような錯覚さえ感じる。

写真としての出来栄えはともかく。



時刻は夜になりかけで、これも僕の大好きな時だ。

夕方から夜へと移りゆく、空のグラデーションは本当に奇麗だ。



僕が住む街は、ほとんどこれといって見どころがないところなんだけど、

それでも歩いていると、何か感ずるものがある。

その光景が、他のものとどう違うのかわからないまま、自分はシャッターを切る。



ちょっと何枚か載せてみます~~[:楽しい:]


















写真を撮りつつ帰って、疲れた体と心が、仕事を離れて、すごくリフレッシュできた。



神様が、朝も昼も、夜も造られた。

だからこの風景も、神様のものだ。



晩に、仕事関係のある方から、メールをもらった。



仕事のことで悩みがあるみたい。



恥ずかしながら自分は、職場ではまだ「隠れ切支丹」状態なんだけど、

(聖霊のタイミング待ち!)

この人には自分がチャーチに通っていることを、先日伝えている。



特に偏見があるわけでもなく、普通に受け入れてもらえて、

こちらがびっくりしてる。



でも最初は「チャーチって…そういうパチンコ屋があるの?」って具合だったけれど[:あせあせ:]



この方の悩みは、かなり深いみたいなので、

僕をきっかけに、Jesusからの深い平安が与えられるように、祈ろうと思う。



Jesusを信じていても、辛いこと、苦しいことが無くなるわけじゃない。

でも、起こっていることの意味合いは、全く変わる。

こちらの側のとらえ方も。

僕もまだ、そんな境地には達していないものの、

Jesusを土台にする素晴らしさは、そこにあるという確信はある。



十字架という残酷な処刑道具が、Jesusによって復活への希望と

変わったように。

厳しい出来事、理不尽だと感じる出来事の意味だって、

Jesusによって新しい希望へと変わるはず。




そのことを、少しずつ、その人と分かち合えたらいいな。

晩から、雨が降り始めている。

梅雨のない北海道にはこの時期、珍しい。

昨日は日差しが強くて、典型的な十勝晴れだった。

空が高くて、一面が雲で覆われる。



雨の日もまた良い。



今日は雨音を聞きながら、からだ巡茶を飲みつつ、

ブログを書いてます。



デイサービスについて。



今働いているデイサービスセンターに入って、

もう10ヶ月になる。

去年の初めに資格をとって、それからチャンスがないままに

TUTAYAに勤め始めて…。

職場の人間関係がかなりひどい所だったから、

早く脱出したいと願っていた。



そうしているうち、新聞でデイの告知を見て、

経験もないまま、勇気を出して応募してみた。



デイでの最初の日々は、それまでの人生で一番濃厚だった。



食事介助ひとつとっても、学校で習ったのとは全然違う。

学習はあくまで、基本について教えるものだから、

実際の現場で「その利用者さん」に対峙しながら、

そのつど、対応していかないといけない。



お話が難しい、全介助が必要な方だって、食べたくないものを口に

入れられたときは、手を振り上げて意思表示してくれるんだよね。



しばらくの間は3分の1も食べてもらえなかった。



トランス(移乗)、これも実際の現場では緊張する。

学校でも生徒どうしでシミュレーションはするんだけれど、

本当の利用者さんは、力をほとんどこちらに預けてくるから、

慣れるまでは震える思いだった。



デイサービスは、お年寄りに楽しみと生きがいを提供する場所だ。

顔見知りの利用者さん同士、それからスタッフと、

会話やゲームを楽しんだり、食事や入浴を共にしたり。



僕はここで、ぎりぎりまで心と体を使いながら、

「人に仕える」ことを教えてもらっている。

そのためにジーザスが僕を遣わしたんだと感じる[:ぴかぴか:]




この場所ではいろいろな顔が要求される。

運転手、送迎添乗員、おしゃべりの相手、

ゲームの進行やカラオケではエンターテイナーの顔も。

それからウェイター、入浴後の、利用者さんの髪を整える美容師、

カメラマン、そしてもちろん介助員。



1日くるくる変わりゆく役割を演じていくのは、

かなりのエネルギーが必要だ。

曜日によって利用者さんの顔ぶれも変われば、

雰囲気も変わる。

その折々に対応しながら、おおまかな予定に従って

日々は動いていく。



自分のなかの、いろんな筋肉が鍛えられていくんだ。



それはきついことだが、でもその毎日を通して、

強く感じること。

それは、

「自分が関わることで、喜んでくれる人がいるのって嬉しい!!」

という、シンプルな事実だ。



境遇も、体調も、性格も、

それぞれ違う利用者さんたちと、僕らスタッフが織りなす、

気心の知れた、楽しそうな雰囲気を見るのが好きだ。



勿論楽しいことばかりではない。

「お茶が熱すぎる!莫迦!」なんて叱られることもあるし、

お風呂のイスの位置がいつもと違ってることで、

怒りを覚える方もいる。

やりきれない、理不尽な思いを抱えることもしょっちゅうある。



西でトイレに連れてってとの声あれば馳せ参じ、

東でコーヒーのご要望があればポット付近へ急行し、

砂糖を入れてる間に、「ちょっとお兄さん!折り紙出してきて!」

と声が飛んでくる。



体2つほし~~~~い、と天を仰ぐこともある。



でもここは…神様が与えてくれた職場なんだよね。

スタッフの人間関係も悪くないし。

TUTAYAが「エジプト」だとしたら、

ここは「カナン(約束の地)」ってぐらいの。



だからぎりぎりのところで、いつも護られていると感じる。



いつまでいるかはジーザス次第だけれど、

たくさんのことを覚えて、

チャーチで仕えるときにも活かしたいな~~。






レクリエーションの「パットゴルフ」で。

右下の写真はやらせダス!いくらなんでもこんなに飛ばないよ[:汗:]
3日間程…何だか体調不良だった。

今日も喉が痛くて、ねばりのある鼻水が出て、寒気がする。イッツ軽い夏風邪…。

そのうえ周期的に襲ってくるプクイブルー期(なにそれ)。

要するに気持がダウンしちゃう。

この時期はわけもなくメロウな気持になって、布団にくるまりたくなってしまう。

神様を信じていても、時々そういうことってあるんだ。

「俺ってなんて駄目っ子なんだろう。んあ~~~何か寂しい!!!」って。

昔はこの厄介な時期が襲い掛かってくると、1日支配されてぐったりしていたけれど、

最近は小一時間で脱出できるようになった。



今日も家に戻って早々、ベッドに横たわって、ひたすらジーザスに思いを向ける。



あと、あほらしいかもしれないけど、

携帯の待ち受け画面にしてる、自分で加工した映画『パッション』の写真を

何度も見ていたよ[:汗:]ジム・カヴィーゼル演じるジーザスの姿を。



そうしたらバイブルの言葉が浮かんできた。



「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書43:4)



とりたてて取り柄があるわけでもない。年相応に生きられているわけでもない。

そんな僕にも、ジーザスがそう言ってくれているから、何度でも立ち上がれるんだ。



これってただの1人よがりなのかな?

でも、たった1人でいた頃は、こんなに温かい気持になったことはなかった。



そんな中、今日はまた神様が「人の贈り物」をくれた。

京都在住のクリスチャン、nizzy+さんがmixiを通じてメッセージを下さったんだ。

こんなことって、信じられないくらい嬉しい。



晩、時間ができたのでnizzy+さんのmixi日記をゆっくり読ませてもらった。

彼女の、決して平坦とは言えない道のり。そのところどころは、

自分にもあったささやかな苦難が紙切れみたいに思えてしまうほど、

厳しいものだった。でも彼女は神様を信頼し続けた。



ジーザスは、辛い思いをしている人の味方だ。

彼女は苦しみをくぐることで、確かな信仰を手に入れたんだと思う。



日記につけられている仲間の皆さんのコメントも、あたたかくて

こちらまで心を揺り動かされるほどだった。

あと、美味しそうなベーグルの写真にも…心が…(以下略)[:あせあせ:]



ご本人が、日記を「友人の友人」にまでしか公開されていないので、

ここでもあんまり詳しい内容については触れない。

でもnizzy+さんは、今、ブログでも神様の愛を伝えたいと、準備されてるみたいだ。



広い場所で、溢れる想いが描かれるのを、楽しみに待っている。

神様、素敵な人をありがとう!






今働いているデイサービスのパンフレット、

新しくするってことで、相談課のGちゃんから依頼を受けていた。

今日はお休みで時間もあったから、ちょいと頑張ってひな形をつくりました。

こういうものを作るのは大好きで、あっという間に時間が過ぎ去った。

でもプロユースのソフトって訳がわからないね…[:汗:]

またGちゃんと相談して詰めていこうっと。

皆さんにも、表と裏の表紙をお目にかけますね~。



いつかチャーチのパンフレットや、webもつくってみたいなあ。

そんな野望を抱えつつ(にやり)。








韓国で神様に出会った話の続き。



それまでの僕の人生は、たくさんの行動が逃避から生まれていたような気がする。

特に両親からの。

両親は特に大きな問題を抱えていたわけじゃない。

少しばかり頭の固いところはあるものの、子供を育てるために一生懸命働いてきた、

どこにでもいる父と母だ。

僕は北海道の室蘭生まれだ。小学2年までそこに暮らし、

それから中央部の十勝へと移ってきた。

思えば、この環境の変化が僕に、あまり好ましくない影響を与えたのだ。

保育所、小学1年まで、僕は日本名を名乗っていた。

(在日韓国人は韓国名と、「通名」と呼ばれる日本名を持っている)

引っ越して、転校してからは韓国名で学校に通った。

「韓国人なんだから、韓国の名前を使うのは当たり前」

両親の気持はそうだったらしい。



だが、家で韓国式に暮らしているわけでもなく、

韓国語を使うわけでもなかったから、

僕のなかで韓国人としてのアイデンティティーは育つはずもなかった。

姿かたちは日本人と変わらないのに、名前だけは妙。

クラスメイトからはあからさまないじめこそなかったものの、

「この子は何か、違うんだ」という、微妙な違和感があった。

自分は他の子と違う。

その気持は距離を生んで、僕はクラスメイトに溶け込めなくなった。

わけもない劣等感が心を苛んだ。



何年か経った。緩やかに始まりつつあった反抗期も相まって、

僕は両親ともうまく話せなくなっていた。

自分には韓国名を使わせるのに、父自身は「仕事の関係で」日本名を使って

いるのも釈然としなかった。

この反抗は本当に長く続いた。今でも余震が残っているほどだ。

僕は高校から親元を離れたんだけど、動機は逃避だった。



混乱した自我が、土台のない場所から成長するのは、難しい。

高校でも、僕はコンプレックスにまみれることとなった。

ただ勉強をするだけなのに耐えきれなかったということもあり、

僕はクリエイティブな活動に力を入れ始めた。

写真、絵、音楽(特にテクノ)を聞くこと、部活の放送部……。

何か先への確証があったわけじゃない。

現実を見たくなかった。先送りしていたかった。



大学は某学校の芸術学部を受けた。見事に落ちた。

僕は1年浪人して、本厚木にある大学の写真学科に入学した。



そこで感じたのも深い劣等感だった。

クラスメイトの多くは、若さゆえの高慢さと、根拠のない自信で、

ものづくりに邁進していた。

でも、自分には何かを生み出すための強い動機がなかった。

親への反発…そんなものに自分を預け渡していながら、

どこかで無条件の評価を求めていたから、

他人の評価に対しても敏感で…すぐに気持を左右された。

批判を聞くとまる1日ふさぎ込み、もう嫌になってしまっていた。



いつのころからか、僕は大学に行かなくなった。

親からの仕送りは本、映画、ゲームに使い果たされ、

時間をつぶすためだけの日々が続いた。

不眠症になり、昼夜は裏返り、

しんしんと冴えた頭と血走った眼で、夜明けを迎え続けた。

東京という街は、弱った心に、けして優しいとは言い難いところだ。

僕は1分1秒を生きることがわからなくなっていた。



両親からは時折電話が来た。僕は自分の苦境について一言も話せなかった。

「平気。何とかやってるよ」この1点張りだった。



荒んだ心は、僕をある行動へと駆り立てた。

万引きだ

一時期、僕の部屋の本棚は、盗んだ本で溢れ返っていた。

本を買うお金が無かったわけではない。

今から思えば、「気づいてほしかった」んだと思う。

ここに生きていること。

何度となく盗みを繰り返しても、不思議と見つかることはなかった。

そうだろう、と感じた。

俺はコンビニに入っても、いらっしゃいませ一言、

言われたことがない程だから。



しかし、しばらくして。

神保町の大きな書店で、とうとう僕は捕まった。

玄関を出て、警備の人に手首をつかまれたときの感触は、

今でも覚えている。事務所に連れられ、親へ連絡がいった。

身分証明の外国人登録証を見て、係員が言った。

「国に帰らされるぞ」

冗談じゃない。韓国のどこに僕の居場所があるんだ。



そのころ、実は全く人との接触がなかったわけではない。

僕には一人の友人と、彼女がいた。

ただ、結局のところ、僕はこの2人を裏切ってしまう。

友達の方は、友達の彼女が紹介してくれた本屋のバイトで、

店員にも関わらず店の本を盗んだことで。

勿論首になったし、友人との関係にもひびが入った。

彼女との関わりは、ただ単に、肉欲の問題だった。

気持の、深い繋がりなどほとんど無かったから、

ほどなく彼女は去って行った。



僕は遠い国で、放蕩を尽くしていた。






韓国でジーザスを受け入れてから…そのことを思い出すことになった。

過去の情景が、次々と脳裏をよぎり始めた。

バイブルのとある箇所に触れることで。

それは「ルカによる福音書」の15章11節から始まる、

放蕩息子のたとえだ。




ある人に息子が2人いた。弟の方はどうしようもないやつで、

父の財産を生前分与してもらい、すぐさまそれをお金に変えて家を離れ、

遠い国で放蕩の限りを尽した。

お金のあるうちはいい。ただそれは無くなるものだ。

飢饉が起き、しだいに息子は食うにも困るようになってしまった。

ある人のもとに身を置き、豚の世話をしながら暮らし始める。

「豚の餌でさえ食べたい」と思いながら。

しかしある時、息子はこう言う。

「自分には父の家にいるとき、有り余るパンがあった。しかし今はここで飢え死に

しそうだ。父のところへ行って言おう。『お父さん、私は天に対しても、またお父さんに

対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして

ください』」と。



恐る恐る、息子は家に帰る。自分など赦されるはずはないと思いながら…。

しかし、遠くからやってくる息子を見て、父親は走り寄って首を抱き、口づけた。

服を着替えさせ、子牛を屠り、祝宴を開いた。

畑で働いていた兄の方は面白くない。怒って父親に言った。

「わたしは何年もあなたに仕えてきたのに、あなたはわたしのために子ヤギ一匹くれたことは

ありません。ところが、あの息子(弟)が娼婦たちと身上を食いつぶして帰ってくると、

肥えた子牛を屠っておやりになる」

父はこう返した。

「わたしのものは全ておまえのものだ。だが、あの弟は死んでいたのに生き返った。

いなくなっていたのに見つかったのだ。
祝宴を開くのは当たり前ではないか」



僕には、この放蕩息子が、自分のことのように感じられてならなかった

親に逆らい、遠い国で放蕩を尽くし、激しく赦しを求めている。

これほどの反抗を繰り返したのだから、

普通なら絶対に赦しなど与えられるはずはないのに。



にもかかわらず、父は息子を赦し、帰還を喜んだ。



自分も許されるのかもしれない…。ほのかな希望が湧いてきた。

肉親の父にも反抗し、自分勝手な道を歩むことで、

神様という天の父にも反逆してきた。

しかしそれでも、天のお父さんは手を広げて僕を迎え入れてくれるのだ。



心のどこかでは「そんなうまい話あるわけないじゃん」と思っていた。

でもまた心のもう一方では、許されること、受け入れられることを激しく求めていた。



神様…このままの自分で、いいんですか?



自分は、新しく生まれ変われるんですか?




祈りともいえない、ゆっくりとした流れが、心のなかに生まれてきた。



(つづきます)




プクイの証(4)、「放蕩息子の帰還」は明日にでもアップさせてもらいます。

良かったら読んでみてくださいね~~。



今日はチャーチの日。



神様はすごいなあ。日々、僕の生活に贈り物をくれる。

今日は新しい人を知る恵みを与えてくれた。



礼拝がはじまってすぐ、前の席に、見慣れない若い男の子が座っているのに気づいた。

うちのチャーチは若い人自体がまだあんまり多くないので、その子のことも気になってた。

クリスチャンの身近な仲間がほしいって、ずっと願ってきてたから。

だけど僕は筋金入りの人見知り。

結局礼拝後に声もかけられず、そのうちに聖歌隊の練習が始まってしまい、

その子はそちらへいってしまった。残念…。

いや……別にボーイズ好きってわけじゃないんだけどね[:汗:]



すると練習後、某学校で教鞭を取っている、I先生という方から

「ご飯でも食べにいかない?おごるよ!」と月給前の僕には心底嬉しい申し出があって、

なんとその男の子、Nくんも一緒に来ることになったんだ。



行きがけに、K牧師の奥さんが、I先生にさりげなく「頼むわね~」と言ってるのが聞こえた。

そういえば前にお話させてもらったとき、僕は「クリスチャンの友達がいなくて…」と奥さんに言っていた。それを思い出した。

このお誘いは、奥さんからの粋なはからいでもあるんだ。



近くのレストランに陣取って、いろんな話をシェアできた。

I先生と深い話をするのは初めてで、先生がニューヨークにいたころ通っていたチャーチの話が興味深かった。

アメリカ帰りのNくんも今、進路について悩んでるようで、

ささやかながらI先生と僕でアドバイスさせてもらった。

ものすごく純粋な子で「お話聞いてるうちに気持が楽になってきました!」と

嬉しいことを言ってくれた。



しかしレストランの一角で、男三人がビーフステーキランチ(I先生ありがとう!!)を

がつがつ食いながら「キリストが」「教会ってさあ」「罪のことなんだけど…!」と

言い合ってるのは凄い光景だよね。目え、ちょっとうるうるしつつ。



でも僕にとっては、夢みたいな時間だった。

ずっとこういうことがしたかったんだよね~[:ぴかぴか:]



直で、ジーザスの話を、仲間とシェアすること。



ジーザスライフハウス・チャーチの「ライフグループ」、

これは平日に仲間と集まって、バイブルの勉強をしたり、日常のことをシェアする集まり

らしいんだけど、今日の食事会はちょうどそれを彷彿とさせる感じだったなあ。



JLHの皆さんも日々、すごい喜びを得てるんだね…。



アドレス交換してI先生、Nくんと別れた。

これからもよろしく哀愁!神様ありがとう!




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