Hold Me Jesus 2

北海道在住のジーザスフォロワー・taikaのブログ。CFNJ聖書学院にて研がれる日々。

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「神は孤独な人に身を寄せる家を与え、捕われ人を導き出して清い所に住ませてくださる。」(詩編68:7)

この学院にいる僕の状態を、一番よく表してくれている御言葉だと思う。世捨て人のように生きてきた僕をイエス様が拾ってくれて、学院、教会、家族を再び与えてくれた。

5月13日、34歳になった。イエス様が亡くなられた歳を、とうとうこえてしまった。その日の朝も例によって明け方に起きてしまい、祈り部屋で一人、あれこれと想いを巡らせていた。残り時間のことを考えた。いわゆる「一般的な人生」からはだいぶ軌道がはずれてしまったこの人生、残りをどう使うべきか。

突き詰めて考えれば、僕はただただ、イエス様のことが知りたいのだと思った。自分の全部で受け止めて、それをまだ知らない人に伝えたい。それだけだ。僕も含めて、人々がイエス様を知って、それまでの囚われから解放されて、突き抜けた人生を送って欲しい。常識にがんじがらめでない、本気のキリストの弟子となってほしい。僕もなりたい。人の変化と成長がみたいんだ。

要はずっと飢え渇いている。本当にイエス様を知ったらどうなるのか。そのことに。何かを知った気になんてなれない。求道が続いている。

世界規模でクリスチャンの、つまり父なる神様の計画は進んでいる。そこがまた面白い。そんな壮大なプランのごく一部を、こんなへなちょこ兄さんが担当できるなんて。逆説の面白さだ。

…写真もある種の使命、本能の類いと思っているが、これはあくまで実用、アマチュアのレベルとしてだ。僕が学院や日常生活を撮りまくって公開しているのは、イエス様を証する為の通路だ。生きているものを見せたいからだ。

余談だが先日、教会のシネマカフェで『ファイアーストーム』を観てから、配偶者のこともかなり真剣に祈っておりますよ。火がついたね(笑)。というのも、いずれ本格的に神様の働きに携わるようになった時、絶対に助け手が必要だと感じるから。「人がひとりでいるのは良くない」のも痛感しているから。そして何より、実は結婚って、この世にいる間にしかできないらしいから^^
「復活のときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と聖書にあるとおりだ。まあ学院にいる間にどうこうはないと思うけれど(出てからも?)、いずれ出会える“その人”のためにも、少しはこの気難しさを聖霊様に削って頂いて、ましな人間になりたいと願う。まあ早めにお会いできるのなら嬉しいですけど。


この歳…まだ34歳なのか、もう34歳なのか。

僕にはわからない。時間は変えられないから、そこにある34歳を認めるだけだ。
とりあえずイエス様を中心に、写真、韓国語、子供達への働きにそれぞれ邁進していく。最終的な大きな目標としては「牧会」だろうか。うわあ、だいそれてるね。でも余計なことは考えない。
余計なことは、クリスチャンになる前にさんざん考えたし、それで結論なんか出なかった。全ては仮説に過ぎなかった。

というわけで、誰に向けてかわからない地味目な所信表明、でありました(笑)。
これからもよろしくお願いします!



「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うだろう、と主は言われる。」(エレミヤ20:11-14)
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2011.05.16 07:32 | 信仰・想い | トラックバック(-) | コメント(0) |

ブログではお久しぶりです。皆様お元気でしょうか?と誰に言うともなく言ってます^^
僕はといえば様々な役割、奉仕に埋もれつつ、「聖書面白ええ!!!!!!」と叫びまくりたいほど、徐々にその深さを感じてます。生きることにこれだけ直結する本って、他に無いよね。



…新学期が始まってから、僕の中で少しずつ形になってきていることがある。それは牧師への召しだ。偉いとか立派とかではなく、キリストの身体の役割としての牧師。「神様、隣の人と間違えてないですか?」という疑問もあるにはあるけれど、学院に在学できるうちに、この召しをはっきりと受け取れたらと思う。でも神様に関わることで良かった。「魚屋さんでアルバイト、しかも一生!」とかだったら、ちょっと困る(笑)。魚屋さんも素敵ですけどね。

「あなたたちがわたしを選んだのではない。わたしがあなたたちを選んだ」(ヨハネ福音書15:16)。この御言葉を握りたいと思います。



5月2日の日曜日は、久々に礼拝を捧げることができた。水産部の横暴なシフトのおかげで、ここ何回か、日曜出勤が続いたからだ。午後はキム先生とマンツーマンで弟子訓練の学びもできて、これが濃い、深い時間で良かった。

学びの前に、次の御言葉から、先生は「自分に死ぬこと」を話してくれた。

「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を捧げられた神の子に対する信仰によるのです。」(ガラテヤ2:19-20より)

アメリカで大リバイバルに携わったウェスレーという人によると、クリスチャンには4段階の回心があるらしい。①宗教的な改心。②福音による回心。③聖霊による回心。そして④使命による回心だ。彼自身も、この段階を経て、回心が深まっていったという。

日曜日に教会に行く。祈る。賛美する。メッセージを聞く。で、残りの日々は普通に過ごす。この、宗教的な改心から、福音による回心に向かうことが大事だと教わった。どうすれば、その方向に向かえるのだろうか。必要なのは「自分にとことん絶望すること」。イエス様に従いたい、聖書が語ることを生きたいと自分で何とか努力して努力して、けれど決してその基準には達せないと心底思い知った時、初めて神様に全てを委ねることができるようになる。

最初から何もしないだとか、自暴自棄になるという意味ではない。努力に意味がないわけでもない。
自力では何もできないという気づきを得る必要があるんだ。徹底的な無力。

上に挙げた御言葉で、僕らは「キリストと共に十字架につけられています」と、受け身の形で書かれている。自分で自分を十字架につけることは不可能だ。右手で足に釘を打つ。そして左手で釘を打つ。では、残った右手はどうするのか。

愛をもって、古い自分を十字架につけてくれるのは、イエス様ご自身だと思う。

だから僕も、頑張って、失敗して、失敗して、限界に突き当たって、もうイエス様に委ねるしかないところまで、行きたいと思う。

その時、もっともっと、福音の恵みを、身をもって知ることになるんだろう。頭じゃなくて、身、僕の全部で。

飢え渇きは、ますます強まるばかりです(笑)。

そうだ、Facebookではちょこちょこ写真や文章を更新してます。「fukui taika」で探して、良かったらお友達になってくださいね^^





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2011.05.04 09:54 | 信仰・想い | トラックバック(-) | コメント(0) |
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